2011/05/06

父とかしわ餅

やはり子供の日はかしわ餅だ、子供の頃から毎年必ず食べている
でも、小学生の頃食べてたのって、もっと”かしわ”が渋く香ってた気がする
今もその香りが懐かしく思えるのは、それは子供の頃を懐かしく思ってるからだろうか


子供の頃、我が家はビンボーだった。いや、我が家もビンボーだった、だろう
右も左も、前も後ろも、いや、町ひとつ全体が同じカタチの家が並ぶ社宅に住み
どの家も同じ生活レベルだった、そんな時代、そんな町


その町を出て新築の家に住む、なんて夢のような話が両親の口から漏れ聞え始めていた頃
あれは、小学校5年生の子供の日、海外長期出張から帰国したばかりの父と
行き先も教えてもらえず二人で出かけることになる
帰国したての父とは会話も合わず、無言で一時間もバスに揺れながら着いた所

ここに家が建つぞ、ここは台所、ここが居間で、この上がお前の部屋・・・
とかなんとか言いながら書類を手に、地面を歩き回る父
母が持たせてくれた、かしわ餅を手に、父の後を追いながら、ホントに家が建つの?ワクワクしてた

『で、この庭の角っこにな、大きな鯉のぼり立てられるようにしてやるからな』
父いわく、狭い社宅の庭で鯉のぼりは立てられなかったのが残念だったと
でも、当時5年生、今さら大きな鯉のぼり?恥ずかしいよなぁ
と、かしわ餅をほお張りながら、つい言ってしまった


『来年、もう6年生やから、そんなん、いらん』

一瞬父の大きな手が迫って来る!あぁ怒ってる?グーパンチか?パーか?
と後退ったが、父の大きくゴツゴツした手は、頭をランボーにくしゃくしゃにしして
そうか。そうか。と言ったっきり黙りこんだっけ


まだバリバリの社会主義国、旧ソ連に技術を学びに行く遠征チームに名乗り出て
24時間監視されながらの生活を1年過ごし、帰国後2年足らず、今度は日本で
熟成させた技術を手に旧ソ連へ指導者として出向いた父
母いわく、父の、そんな厳しい仕事があってこそ建てることが出来た家だと
そんな、家と高度成長期の日本を支えて来たオトコに対して
オレは何て失礼な、何て思いやりの無いことを言ってしまったのだろうか


いつか誤ろう、ちゃんと誤ろう
こどもの日が来るたびに、そう思い始めたのは、不思議なもので、父が逝ってからだ
でもオヤジ、こうして毎年かしわ餅食べては、思い出してるよ
あんときさ、殴ってくれてても良かったのにな
なぁんて、今だから言えるけど。。。


ってなことで、今年もごめんオヤジ

  

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