2011/05/18

君去りしのち

君去りしのち

巨匠 重松清の”君去りしのち”を読んだ
ロードムービーならぬロードノベルだ(このコトバも一般化してきたっけ)

各章のイントロダクションが
”旅をしている” で始まり、最終章だけ ”旅をしていた” に変わる

42歳の主人公は、1歳の息子を亡くす、その喪失感を埋めるように旅に出る
旅には前妻との間にもうけた17歳の一人娘が付かず離れず、寄り添うようになる
二人は旅先でいろんな人、いろんな想いに巡りあい
それが旅を巡礼へと変えてゆく




旅の果てに喪失感を埋める、どころか前妻の死に立ち会う後半の急展開が
いかにも重松的と言うべきか
重松は、『その日のまえに』 『カシオペアの丘で』 の二編で、もう生と死については
書き上げた感があった、特に、家族を残して死んでいく女性が、主人公の夫に
「忘れてもいいよ」と残して逝ってしまう 『その日のまえに』、あの作品のあと
もう生と死なんて書けないだろう、ってか、もう書かなくていいよ
と、一ファンとしては思い込んでいた
それほど立ち直れなくなくなるほど響いた(ってか、泣かされた)のだ
が、この作品で分かった
もう書けないどころか、もっと書こうとしているようだ・・・って
当たり前か、どんな小説家も行き着くところは”生と死”だ


 恐山、賽の河原と風車

 奥尻、津波の悲劇が残した足跡

 オホーツク、音もなく流れる流氷

 ハワイ島、奇跡のムーンボウ

 奈良、出雲、与那国、そして島原

”死”というフィルターを通して見る風景はこんなにも悲しく、こんなにもせつないものか
その光景が、重松の紡ぎ上げるコトバで、情景へと変わり、読み手に明確に
それはそれは明確にイメージさせる

例えばオホーツクのエピソード
    
 流氷の流れ着く北の果ての終着駅でのこと
”自分をひっくり返してくれるような風景を探しに行く”
そんな言葉を残し消え去った一人息子の痕跡を探す旅をする老夫婦との出会い
そのシーンは、流氷のきしむ音、寂れた駅舎、身の切れるような風たちと共に今も胸に残っている


重松先生
この作品の情景の数々が今も胸を埋めていて
とてもじゃないけど、新作の 『十字架』 に手を出すことはできません

明日香は今も独り旅を続けていますか?



   

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